【創立60周年記念企画】 日本統一運動史 12 怨讐を愛する道 帰国とその後② 歴史編纂委員会・編著

 

第一章 メシヤとしての準備時代における真の御父様と日本
(1941年から1945年8月15日まで)

三、 帰国とその後(1943.10〜)

(4)鹿島組の京城支店に就職(1944)

 韓国に帰国された真の御父様は、ソ連やモンゴルに近い満州電業株式会社の海拉爾(ハイラル)支店に就職する予定でした。しかし、韓国に戻って40日間ほど滞在するなかで、情勢の変化を感じ、海拉爾行きをやめ、1944年初めに京城にあった土木建設会社鹿島組の京城支店に電気技師として勤務したのです。真の御父様は学生時代に過ごした黒石洞(フクソクトン)の李奇鳳(イギボン)さんの家から通勤されました。

 鹿島組京城支店(支店長、村井佐八氏)は、40年2月に営業所から支店に昇格します。この頃、同支店の代表的工事は、漢江開発の一環をなす清平、華川発電所工事などがありました。支店は京城駅のとなり駅である龍山駅近くの軍司令部の向かい側にありました。

1.  御 言

①「学生を卒業して、その時、徴兵問題がありました。工科系統の者はね、それは徴兵に、兵隊に行かなくて引っ張られなかったんですね、それでまあ、就職するために先生は満州のソ満国境の海拉爾という所に行くように決めたわけであります。それは、学校で、就職の斡旋をしてもらって、そこを、それを決めたのは、そこに行けば、ソ連国境である。それは、満州語、あるいは中国語を習うし、ソ連語を習うし、それから蒙古語を習うことができるんだね。それで、今後のアジアの伝道舞台、神の摂理圏を思いながら、苦しみの晴れなき道であろうけれども、その地に行って、いろいろな言葉を勉強しなければならないという観念でもって…行くようにしたのです。

 しかし、いよいよ韓国へ行ってみて、40日ぐらい待ってみると、街の情景が不安だということを予感しまして、これは行ってはいけない。そこで、満州電業に就職した担当に行って、支店長に会って、それは取り消すようにけんかしたのが、昨日みたいに思い出します
ね。」(1974.5.12)

(5)投獄(1944.10)

 1944年10月、真の御父様は日本留学時代に抗日運動をしたことが発覚し、京畿道警察部に連行されました。そこで、過酷な拷問を何度も受け、日本での地下運動の具体的な内幕と、その関連者を暴露するよう迫られたのです。しかし真の御父様は血を吐き、生死の間を幾度もさまよいながらも、決して口を割ることはありませんでした。

 

 
▲京畿道警察部
1.  御 言

①「先生はまあ、随分拷問された。その話をしたらもう2分と聞かれない。この土までを掘って、土にして飛ばしたい程の拷問をされたよ。」(1965.10.8)

②「先生においては日本人は怨讐であった。日本の憲兵によって相当拷問された。血を吐き、生死の境界を何十回も往来した男だ。時来たらばそれ全体を一遍に復讐してしまっても、あまりあるような、そういうような立場において辛さを感じた男である。」(1972.5.6)

③「二十代の時に日本の警官によって拷問も受けました。そして戦ってきました。むちで打たれ、拷問されながらも、先生は堂々としていました。そのようなことを忘れることができません。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.214)

2.  嚴徳紋氏の証し

「鹿島組の京城支店で先生と私はまた一緒になりました。職場が同じだったのです。先生は電気の方、私は建築の方でした。そのうちに私は現場へと出張ということで、平安南道に行きました。先生は京城支店にそのままおられたのですが、そのうちにどこかに転勤になりました。そして1945年8月の終戦を迎えました。後でわかった話ですが、先生は終戦の約6か月前に警察に捕らえられ、拷問を受けました。もしその時、先生が話されたら次は私につながる訳です。先生は一言も話されなかったので、その代わりに酷い拷問を受けたのでした。

 一例を言いますと、飛行機乗りと言って、このように手をくぐらせて、ひもで天井に上げて引っ張ります。そうすると、これが上げられて足が浮かぶので、まっ直ぐになってしまいます。それがものすごく苦しいので、気絶してしまうのです。先生はそのような拷問を受けながらも、一言も言われなかったのです。今から5、6年ほど前に『嚴、お前ね、年をとると昔のあれがでるね、痛いんだよ。アメリカでレントゲンを撮ってみたら、肩が肋膜炎のように写っていたね。身体の調子が悪い時には、それがたたってくるよ。』と私におっしゃったことがありました。」(『祝福』第32号より)

(6)出獄(1945.2)

 真の御父様は、1945年2月に釈放されましたが、血便が続き、当時、真の御父様と行動を共にされた文龍基氏がお世話をされました。

1.  文龍基氏の証し

「文先生が3か月間、拷問を受けられている間、我々は有名な弁護士を立て、何とか3か月で無罪釈放を受けられるようにしました。釈放後、やっと拷問のあとの半死の状態で故郷に帰ってこられました。私は一年間、文先生のおそばについて看病したのです。食事以外はいつも御父様のおそばで『背中が痛い、足が痛い』と言われれば、もんで差し上げたり、たたいて差し上げました。そして、便をするのも難しく血を含んだ便をなさいました。本当に大変な拷問を受けられ、それをずっと看病し、お世話し続けました。」(1987.8)

(7)韓国解放後の日本に対する対処

1.  御 言
①「先生も、日本でどれほどぞんざいに扱われたか知れません。その腹いせをするとなると、こん棒で日本人の骨をへし折っても、怒りが解けないでしょう。しかし、神の愛を悟り天道を知ったので、この遊びごとをするのでしょう。そうなれば、目に火花が散るのです。私が拷問を受け血を吐きながら生死の絶頂であえいだ事実は、死んでも忘れられないでしょう。そのような後孫を呼び集め、神の息子・娘にするのはたやすいことでしょうか。」(『祝福家庭と理想天国』〈Ⅰ〉1174ページ)

②「第二次大戦で日本が負けた時、先生を拷問した人たちをみな夜中に呼び出して、『あなたたち、韓国にいたら危ないから逃げなさい』と荷物を積んで送り出した先生です。先生はその時、今までの日本は敵国であったが、将来はそうではない、神の御旨によって、兄弟になるであろう未来を思いつつ、現実の赦し難い日本を赦そうと思ったのです。」(1978.9.21)

③「先生は、学生時代に日本民族にずいぶんやられた。いじめられた。先祖何代を集めても…百姓の家においてやられたしね。社会においても無視され、侮辱されたそういうことをやられてきたんだ。そういう問題で日本に足を踏めるという思いをすることができないようなことがたくさんあるよ。日本民族に対して先生は敵を愛する。神様が再創造のこの見苦しい、惨めな立場に立って、これ以上のものを再び統一教会で涙ながらに愛して来た伝統を立ててきたんだから、その怨讐たる民族を愛した。先生は日本のために自分の一家の者を犠牲にしながら、日本開拓のために今までやってきたのを、あなたたち知らないだろう。日本民族に負債していません。絶対負債していません。日本民族は天の愛を中心として先生に負債しておる。」(1973.8.10)

④「戦争が終わると同時に、拷問したその高等刑事、その時は高等係といい、名前はよく知っているその人たちは先生が友達に命令したらその時にもう飛んでしまうんだよ。しかし先生はそういう友達にみんな聞かせて、『かわいそうなのは日本の人である。…打たれてるからかわいそうな立場である』。だから先生は先生の知っておる日本の方に対しては荷物とかみんな先生がよくしてやったよ。『君たち早く帰れ!』と、たくさんあるんですよ。今も会えばその人たちもおるでしょうね。しかし、先生が日本の政府によって迫害されたそういうことを思わざるをえないんだけれどもね。しかし先生の主義はそういう主義じゃない。先生の願う希望はそういう希望じゃない。」(1965.10.8)

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 次回(9月22日)は、「キリスト教を中心とする第一次摂理①」をお届けします。